医療機器製造業経営者の事業承継(第1回)
横浜医工連携推進コーディネーター
真鍋 緑朗
2019年5月28日(火)
2017年からIDEC横浜の医工連携推進コーディネーターとして活動中の真鍋コーディネーターは、もともと横浜市内で電子部品製造会社を経営していました。そこで経験した、中小企業が医療機器開発に取り組む上での様々な困難について、シリーズでお送りします。
私は父の創業した会社を継いで、医療用X線診断装置を開発製造する社員30人の中小企業経営者として、長年、薬事法(現在の薬機法)に携わってきました。その会社を最終的にはM&Aで手放すことになるのですが、創業から現在までの流れを3回にわたりご紹介させていただきたいと思います。
レントゲン屋の誕生
昭和5年生まれの父は、中学3年生の時に学徒勤労動員で光学ガラス工場(現在のHOYA)で働き、そこで仕事の合間に電気や化学の実験をして鉱石ラジオを作ったりしながら技術屋への道を歩んでいきました。実験では火薬の分量を間違えて爆発させて耳を痛めその後遺症がずっと続いたようです。
終戦後、電気工業専門学校(現在の東京電機大学)に進みましたが、当時の学園は落ち着いて勉強するような雰囲気ではなく、好き勝手にアルバイトでラジオや電気蓄音機の組立・修理に励んでいました。外地からの引揚者と失業者であふれていた当時は、卒業となっても就職口がほとんどなく、10月になって東京湯島の日本医科器械工業(株)に採用され、そこでレントゲンを作ることになりました。その時でも給料が1ヵ月以上遅配している状況を知った上での入社でした。
この会社は戦時中の国策で東京の中小医科器械器具メーカーを統合し長野に疎開させた会社で、レントゲン部門は志賀高原の湯田中にありました。戦後、かなり無理をして東京に建設した本社工場には、東芝・島津と張り合うレントゲンの機種をそろえて常設展示し、とても立派に見える会社でした。父は検査課に配属され2年半勤務しましたが、検査設備は十分にあり、まるでレントゲン専門学校で実習しているような気分だったそうです。そのあとこの会社は倒産するのですが、この頃の技術者たちが同業各社に再就職していき、それぞれの医療機器業界で腕を振るっていきました。
父もその後、本多レントゲン製作所という歯科用レントゲンでは日本で最初のメーカーと言われるくらいの有名な会社に迎え入れられました。昭和27年頃に歯科用レントゲンにもJISが制定されて技術屋が必要となっていたのです。入社後5~6年は歯科レントゲンの保険適用のお陰もあり、会社の業績も飛躍的に伸びていましたが、各歯科機器メーカーが次々と参入して、たちまち生産過剰の状態になりました。給料の遅配などで社員も次々と辞めていき、僅かな受注のレントゲンも高圧トランス組立の人手がなくなるほどでした。父も給料がいつもらえるかわからない苦しい生活でしたが、責任上辞めることもできず、自宅で内職やアルバイトを使って高圧トランスの組立を引き受けることにしました。昭和38年、私が4才の頃です。
自宅といっても二軒長屋の狭い借家で、父が外に置いたシャーリングで日曜日にケイ素鋼板を切断し、母や私の幼稚園の友達のお母さん(今で言えばママ友)が廊下や畳の居間で巻線やトランスの組立を行い、長屋の隣のタクシー運転手さんが仕事の合間に材料や製品の運搬をするという具合でした。しかし家主から「貸した家で工場の仕事をするのは困るから出ていけ」と言われ、自分の家を建てることとなったのです。
家主にしばしの猶予をいただき、祖父の全面的な資金援助で、今の横浜市港南区に27坪の土地を取得し、1階の半分を土間の作業場にした2階建ての家を建てましたが、建てて1ヵ月後の台風で屋根が飛ばされ、傘をさして夜を明かしたほどの安普請でした。
こんな家でしたが作業場もでき仕事は順調にはかどり、昭和41年には隣の空き地18坪を買取り、コンクリートブロックの作業場を増築しました。ボール盤やネコプレスが置いてあり、当時小学生だった私にも面白い遊び場で、近所のお母さんたちが高圧コイルを内職で巻いてくれたり、母がトランスの組立作業を手伝いながら夜は簿記の教室に通っていたのを覚えています。
受注の幅も広がり、屋号も母が個人事業主の「港南製作所」として、少しずつ製造業らしくなっていくことに父は大きな喜びを感じていました。しかし納入先の本多レントゲン製作所の業績はさらに悪化しており、経営再建もうまくいかず昭和45年にとうとう倒産となってしまい、しかも歯科業界関連の負債の一部は父が弁済しなければならないことになっていました。私が小学校6年の時です。(続く)